マタイによる福音書16章17-8節
<すると、イエスはお答えになった。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である。私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。>
マタイによる福音書17章1-8節
<六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口を挟んでイエスに言った。「主よ、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、ここに幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」と言う声がした。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げて見ると、イエスのほかには誰もいなかった。>
「私についてきなさい」とは、霊魂まで責任を負えなければ言えない言葉です。
自信満々におっしゃったのは、メシヤであり、王の王だからです。普通には言えない言葉です。
主に従ってこそ、力が湧くし、もらえるものもたくさんあるし、労苦が無駄になりません。
しるしもたくさん起こります。
主がどこにいても、心と思いと命を尽くしてついてきなさいということです。
「ついてきなさい」と言われた時は、いそしんでついていくべき時です。
天に対してたくさん行なってきた人は、霊に多くのものを持っています。
死ぬほど働いても、聖霊と主を呼ばなければ無味でむなしく価値を感じなくなります。
聖霊と主と一体になった時に天国だと言えます。
信仰で、考えで、そばにいると思って生きなければなりません。
毎日対話して生きなければ、遠く感じます。
説教の時より、生活の中でもっと深く話されるから、続けて恵みを受けて下さい。
神様に近くすることが本当に大きいことです。