<マタイによる福音書5章48節>
『だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。』(聖書協会共同訳)
完全で100%であるものだけをお受け取りになる絶対者神様です。体も心も穢れたものはお受け取りになりません。一度ではできないので、毎日続けて行ないつつ、自分を神様のように完全な人に作っていかなければいけません。
<イザヤ書11章3節>『彼は主を畏れることを喜ぶ。その目の見えるところによって裁かず、その耳の聞くところによって判決を下さない。』
完全であるためには、目で見ても耳で聞いても実際にそうなのか確認しなければいけません。神様もソドムの地の叫びを聞いて実際に行かれて確認し、事実だったのでお裁きになりました。確認せずに話し、行ったら、災いがすべてその人に行って、無知の代価を払うことになります。
<詩篇18篇25節>『主はその目の前で私の義にふさわしく、手の清らかさにふさわしく応じた。』
神様は行ったとおりに接してくださいます。神様は完全な人に完全さを見せてくださるとおっしゃいました。どれだけ義を行なったか、不義を行なったかによって個人と民族の裁きが決定されます。食べることが問題ではなく、どれほど義なる生き方をするかが問題です。私たちは御言葉を聞き互いに仲よくし、兄弟愛の義を積み、愛の義を積まなければなりません。