<民数記15章41節>
私は、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したあなたがたの神、主である。私は主、あなたがたの神である。」
<ヤコブの手紙2章26節>
霊のない体が死んだものであるように、行いのない信仰もまた死んだものです。(聖書協会共同訳)
神様は行なった分、成されるように法を定めておいたので、全知全能な神様でも、言葉、心で命じてこそ、行なってこそ成されます。ましてや肉体を持っている人間が行なわなければ、何も成されません。
神様の御言葉が一度宣布されたら、どんな患難、困難、無念さがあっても、義人たちが諦めずに行ないさえすれば、三位と主はその使命者を通して行なうようになさいます。
行なう信仰、実践信仰が生きている信仰です。やらずに成されることばかり願っても、成されません。行ないつつ生活の場で走らなければなりません。
イエス様の誕生の時、主を知らないから平和にならず、命を殺す戦場になりました。神様が遣わした救い人を知らなければ、いつの時代でも平和が壊れ、戦争です。
井戸端で出会ったサマリヤの女の人は、イエス様を一番先にメシヤだと分かって伝え、証しました。救い人を完全に分かってこそ、自分も完全に行なうようになります。救い人を絶対に信じてこそ、熱心に行なって勝利し、その人を通して喜びと祝福を受け、サタンと悪人に勝ち、三位と主の愛の対象になって、肉は一生、霊は永遠に生きます。
全能なる神様が必ずいつも共にしてくださるので絶対に栄えます。絶対に成さなければならないから、必ず成すようにしてくださいます。神様と主と聖霊の中で共に最後まで行ないつつ成さなければなりません。