ヨハネによる福音書 15章1-7節
<「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。>
(聖書協会共同訳)
信仰でつながっていてこそ、ぶどうの木のように実を結びます。
ぶどうの木の実とは、清くすること、義、平和、忠誠、いつくしむこと、祈りと賛美、神様に栄光を帰すること、御言葉を行なうこと、困難と患難に打ち勝つこと、打ち勝って御心を見つけること、サタンを退かせること、聖三位と一体になること、
忍耐すること、舌を慎むこと、信仰を堅固に守ることです。
良い実をたくさん結ぶべき時です。
三位と離れないで、生きている枝になって、様々な良い実を結ばなければなりません。
良い行ない、義の行ないで良い実を結ぶことを祝福します。
御言葉が私たちの中に留まる時、三位と一つになることができます。
一つになってつながっていて、求める通りにもらうことを祝福します。
実を結ぶためには、一つにならなければなりません。
一つになれば、実をたくさん結ぶようになります。